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昭和恐慌が日本経済に与えた影響による日本ファシズムの形成について

荒川 優介

経済学部経済学科3年 17970004

2000.7.

 

1.はじめに

昭和20年代後半に世界を襲った大恐慌、日本も他の諸外国の例に漏れず多大な影響をこうむった。危機的な状況の中で経済の立て直しを図っていく過程において、日本は他国と異なった形のファシズム国家となっていった。しかし、この体制も結果として日本を世界の大国とするには至らなかった。前半では、この体制がどのようにして生まれ、形作られていったのかを、当時の経済事情、経済思想、そして時代背景を追うことでその矛盾点を明らかにし、後半では、それをこれまでの自分、そして現代の社会状況に結び付けた見解を述べていきたいと思う。

 

 

2.金輸出解禁と蔵省井上準之助の経済思想

第一次世界大戦が終わった後も日本は、他の欧米列強が相対的安定を迎えているのに対し、経済的に振るっていなかった。そして一九二七年(昭和二年)に金融恐慌が起こった。これを契機として不良債権の累積に苦しんだ中小銀行が次々と倒産、休業を余儀なくされていった。当然のように、重大な信用不安が生まれ、預金者たちは大きな恐怖心を抱いていた。そこで成立したのが田中内閣であり、そのもとで支払延期令が公布され、十億円を超える非常貸出が政府機関より行われたことでなんとか事態は鎮静化した。また銀行法改正によって銀行大規模化がなされ、弱小銀行の大整理が強行されたのもこのときであった。そしてその結果金融寡頭制が確立されることとなった。(『現代日本の政治とイデオロギー』)

この不況はあくまでも日本の内部にのみ起こったもので、大事の前の小事であり、政府の半ば強引とも言える救済策によって一時的な安息がもたらされたに過ぎなかった。追い詰められた状況で、冷静に今後を見通し、的確な判断を下すのは非常に困難なことである。しかし、その場しのぎの方法で難を逃れただけにもかかわらず、当時の政府に安心と油断があったのは間違いない。この油断が後に金輸出解禁というものへ結びついたのだろう。

一九二九年十月二十四日にニューヨーク株式市場が大暴落したことにより世界恐慌が勃発し、日本にもその大波が襲ってきた。米国との貿易への依存度が高く、また米国からの資本導入を必要としていた日本に対して、このことはとてつもない影響と混乱を与えることとなった。この事態のもとで政党内閣が国内恐慌救済のために急を要して打ち出したのは、金輸出の解禁と産業合理化の強行であった。これによって財界の安定という名目による独占資本の強化と擁護を目的とする方針に徹することになった。そこで当時の蔵省井上準之助らはまず、金本位制に復帰し、恐慌対策の非常貸出などで膨大となった通貨の収縮を断行した。さらに財政の整理と国民の消費節約とを促進して借金予算を廃し、十六億円の国債を整理し、それにあわせて生産体制の冗費を省くために合理化を進めた。金によって通貨が安定し生産体制を整備、合理化して弱小企業を切り、労働能率を高めて財界を安定させ、そうすることで米国金融独占資本も安心して外資導入も円滑に行われ、緊縮によって物価が下がり対外輸出も伸びるだろうと考えていたのである。こうした政党内閣の恐慌対策が人民大衆の犠牲を承知の上で行われたのは明らかであった。しかし、彼らは自国を取り巻く世界の情勢に対しては大きな誤算をおかしていて、そこで得られた相対的安定を永久的な繁栄と錯覚してしまっていた。(『現代日本の政治とイデオロギー』)

ここで井上準之助の経済思想の矛盾点を明らかにしておきたいと思う。彼の説明はこうである。「日本が外国から物を沢山買いますと、その支払のために金貨が外国に流れ出て国内の金が減り、金利が高くなり物価が下落します。従て輸入は減ります。其の結果は金が外国に出ることは止まり、場合によっては外国から金が入ってきます。斯ういうようにして通貨、物価の天然自然の調節が行われるのであります。」(『国民経済の立て直しと金解禁』、一九二九年)

こうみると単に貿易不均衡→金貨流出入→国内通貨増減→物価騰落という最も単純な形で自動調節作用を認識していたわけではなく、公定歩合の操作を媒介として調節過程を考えていたことは確かであった。しかし、国際収支の運動が基本的に再生産過程の運動=所得の波動に依存しているという観点は、少なくとも薄弱であった。その理由の一つはマルクスの蓄蔵貨幣の機能による、貨幣をすべて購買手段と考えるリカードの数量説批判からきており、金の移動による国際的生産過程が国際的過剰生産の総決算過程にほかならず、金本位制の自動調節機能が実は自由主義段階の景気循環過程における均衡化=恐慌の国際経済的側面にほかならないことが明らかにされたことによる。もうひとつはケインズ以後の近代経済学が数量説を基礎とした古典派の自動調節論を克服したことによる。そこでは、投資・輸出・政府支出などの独立支出が所得変化におよぼす乗数的効果から貿易収支の変化を説き、国際収支均衡化過程を所得のダイナミックな変動として捕らえている。つまり、井上は自動調節過程に金融を正しく政策的に操作することによって「自動調節」を促進する必要を強調し、そうした政策的操作による不景気は後に好景気に反転するであろう一時的な不景気と考えていた(『昭和恐慌―日本ファシズム前夜―』)のである。

こうして見ると、井上準之助の世界状況への無知さ、世界恐慌への軽視がはっきりと現れている。また、民衆を犠牲にしてまでもこうした政策を行ったことは、この後日本社会の大きな変革を呼び起こしてしまった。一つの時代が終わることに結びついてしまったのである。

 

 

3.大正デモクラシーの崩壊

次に、日本がファシズム国家となるにあたって、当然のことではあるが、それまでイデオロギーとして国民意識のうちにあった大正デモクラシーが終焉を迎えることとなった。

恐慌のあらしの中で失業者はあふれ、大卒者の就職状況も惨状を呈していた。在職の労働者にも賃下げと労働強化が合理化のもとでおそいかかり、輸出減退の打撃を受けた産業部門ではその打撃が労働者に転嫁され、大量解雇や大幅賃下げ、さらに不払事件が激増することとなった。しかしその一方で「標準動作」の設定、労務管理の強化、労働の能率を高めようとする計画が強行され、これまで以上の長時間労働が強いられることになった。また、恐慌が農村に与えた衝撃も非常なもので、主要市場である米国への生糸輸出が激減したことは、養蚕を主な副業としていた農家にとって世界不況を真に受けることを意味していた。こうした社会矛盾の激化(しかし、井上準之助をはじめとする政党指導者たちなどは今日の経済組織のもとで失業者の発生は当然のことで少しも不思議はないと公然と抑圧していた。)は、「民衆の福利を本とし、民衆の意向を尊重する政治」を約束した大正デモクラシーへの支配層の期待、民衆の望みを打ち砕き、犬養内閣の崩壊とともに終焉を告げたのである。

そもそも大正デモクラシーを支えた基盤、とりわけ経済的、国際的な条件は、いわゆるワシントン体制であった。第一次世界大戦の後、長期にわたる構造的不況の中で対米軍事競争の展望を見失い、脆弱さを露呈していた日本の独占資本は、逆に米国資本と従属的協調関係を保ちつつ逆境を切り抜けようとしていた。独占資本は、一方で米資導入を促進し、他方で対米輸出はもとより対中進出についても米国の了解をとりつけ、これにより自由貿易体制にある国際市場で一定の配分率を確保して、みずからの安定と均衡を図ろうとしたのだった。こうした対英米協調は、大戦以来の国際的スローガンである「デモクラシー」の思想的市民権を国内でもある程度認めざるを得ない背景になったし、幣原協調外交の経済的基礎ともなっていた。しかしこの経済的、国際的条件は、昭和期のはじめに米・英資本の動向と中国情勢の二つの側面からついえ去ってしまった。

一九二九年の恐慌を脱出しようとした米英資本主義は、その道をブロック経済化による市場独占に求めた。ローザンヌ会議(一九三二年)、ロンドン世界通貨経済会議(一九三三年)がいずれも独占資本の国際協調を回復することに失敗した半面で、オタワ会議(一九三二年)、米州会議(一九三三年)、フランス金ブロック(一九三四年)といったように相次いで関税制度などを用いた貿易制限=ブロック経済化の工作が先進帝国主義によってすすめられた。通貨の円滑な国際流通を確保するのに役立つ金本位制も1931年にイギリスで停止されたのを皮切りにアメリカ、フランスがこれに追随し、「政党内閣」最後の犬養内閣も一九三一年十二月金輸出再禁止の措置をとらざるを得なくなった。ワシントン体制下で期待された国際経済体制は、もはや崩壊していたといえる。

一方、中国では五・四運動の系譜をついで民族統一、排日反帝の大衆闘争が大正末期以降目立った進展を示していた。軍事的であろうと経済的であろうと帝国主義進出に対する最も効果的なアンチテーゼであった民族闘争を抑制しようとするこころみは、帝国外交に一貫した努力の主題であったが、いまや帝国の生命線と称してきた満蒙の既得権益すら中国民衆の戦いの前に揺さぶられ始めた。一九二八年、北方軍閥の雄、張学良は北進統一をめざす国民党に協力する、排日行動のひとつとして日本経営の南満州鉄道に並行する鉄道の建設を計画した。中国全土にわたる日貨排斥運動を反映して中国への輸入は国別で第一位から第二位へすべり落ち、さらに北伐を終わった国民党政権は米英資本への従属を深め、やがて行われた一九三五年の幣制改革もイギリスの指導に負うところが大きかった。いずれにしても大陸経営どころか中国市場から追い落とされる危機感が、ひしひしと日本独占資本と軍・官僚に浸透し、ブロック経済圏づくり、国内改造の声が高まるに至る情勢が生まれつつあった。こうしたことからも、世界恐慌は、日本において大正デモクラシーの崩壊を決定づけたということができるであろう。(『現代日本の政治とイデオロギー』、『経済五十年』)

 

 

4.軍部の思想

昭和初年において、内外の情勢は破局に当面しており、他方で新たな道を指し示すべき無産大衆の力は弱かったといわれている。ゆきづまり腐敗した独占資本主義体制に対する不信、将来の展望を見出しえぬ不安と絶望が社会各層の間に浸透していった。恐慌の影響が深刻となった一九三〇年ころからは逃避的、享楽的な風潮が目立って露骨となっていた。

当時の状況は、軍部とくに中堅、青年将校らをもひどくいらだたせていた。彼らの多くは恐慌によって没落しつつある中産層の出身だったから、ある面では独占資本の横暴と腐敗にするどい反感を持っていた。しかし、同時に中産層としての既得の社会的利益が大陸経営を軸とするなかで形成されてきたことを知る彼らのような軍官僚は、反帝・反植民地の立場に立つ大衆運動や社会主義運動に対して激しい反発と憎悪の念を隠さなかった。彼らの現状への不満感、危機感を強くつのらせたきっかけは中国情勢とロンドン軍縮会議のいきさつであった。満蒙を中心とする大陸経営は日本帝国主義の生命線であり、ロンドンでは帝国の生命線を維持するのに不可欠な補助鑑定を中心とする軍事力がワシントン会議に引き続いて制限された。軍の意向がこのように政党筋から無視されたことは(統帥権の干犯)軍部を強く刺激したのであった。

こうして中堅・青年将校のなかには、軍首脳の少なからぬ部分と結びつきながら、中国大陸とくに満蒙地方に排他的支配権を確立し中国民族運動の圏外に日本の権益を維持すること、国内においては国家改造をはかり腐敗した体制の象徴である政党内閣制を排除して軍部独裁政権を打ちたてようと志す政治グループが生まれることとなった。人民大衆の立場を理解できず、そのために進むべき方向を正しく見きわめることのできぬ人々の中からは、こうした軍官僚の動きに現状打開の芽があると錯.覚するものも少なからず生まれた。(『現代日本の政治とイデオロギー』、『経済五十年』)

 

 

5.ファシズム下の経済

 国家改造を目指す政治的軍人たちは二つの派に分かれていた。一つは皇道派でもうひとつは統制派であることは周知の事実である。そのどちらもドイツやイタリアのファシズム運動とは異なっており、権力奪取にあたって基礎とするべき大衆組織をまったく欠いた、軍人集団を中心とした運動であった。ここに日本のファシズム運動の特色が見られ、超国家主義イデオロギーと天皇の軍隊のイデオロギーとの結合をはかるという特殊な思想構造と将校集団中心に展開された経過のなかにあらわれたものであった。国家改造運動はまず行動派のリードのもとで行われた。政党、宮廷、独占資本などに対する暗殺の衝撃を五・一五事件で犬養内閣に与えたあとも引き続き展開された。

しかし、その庇護者であった荒木貞夫が陸軍大臣を辞めると、皇道派は軍政を握る統制派によって軍中枢からしだいに排除され始めた。そしてついにあせった皇道派の青年将校たちは一九三六年二月二十六日軍事クーデターにふみきった。成功するかにみえたこのクーデターも統制派がイニシアティブを握ったことにより、発生のわずか三日後に鎮圧された。こうして統制派による体制の再編成が行われることとなった。しかし軍部といえども日本資本主義体制から自立することはできなかった。このことは現代独占資本の制覇の時期から軍首脳によってある程度は自覚されてきたことだった。統制派を中心とした陸軍首脳も、政党、官僚の勢力の中に親軍的傾向が強まり、財閥が大正デモクラシーと訣別するのを見てきた。他方で軍の侵略路線も財閥の資力なしには進められないことを悟っていた。

そこで軍主流は既成の財閥、官僚そして政党方面と手を結んで合法的な政権獲得を目指すに至った。なかでも財閥が満州事変以降、ブロック経済化が進む国際的条件のなかで協調外交の路線を清算し軍による勢力圏作りの政策を支持し始め、対満投資に応じ、一九三三年に三井財閥が方向転換を発表したことは統制派の展望を支えるものであった。方向転換を遂げつつある独占資本主義勢力との結合を進めるためには、軍内部の統制を強化して国防国家建設を目指すことが必要であった。具体的には外に大陸経営をおしすすめて満州だけでなく中国全土さらにはより広域への侵略を図り自立経済圏を建設する路線を推進すべきであり、また、軍内部の下克上を排して粛軍の実をあげるべきだ、というのが統制派の主張となった。二・二六事件は粛軍の好機になり、あわせて叛乱を再び必要としないように国内政治の改造を全面的に強行する好機となった。

 その直後新体制が発足し、その特徴は軍と財閥の直結を基礎としつつ戦争遂行に適応した政治・経済運営体制を作り出すところに求められた。広田内閣は、陸海軍備の充実を軸にした体制を広義国防の名のもとにつくり出そうとした。このため蔵省馬場^一によって直接軍事費が全歳出の四割を占める画期的な拡張予算が編成された。こうした拡張財源は空前の増税と公債の大増発によって調達された。大正デモクラシー下の財政基調であった非募債・財政均衡主義はここに完全な終止符を打った。

 続く第一次近衛内閣のもとでは、軍需生産がすでに急速な増大を示していた。しかし、日中戦争突入を契機として戦時経済・戦時財政の段階に入り、公債発行によって資金を調達し、これを軍需生産の拡大に投入するのが財政の基調となった。こうした財政路線は激しいインフレーションを引き起こし、人民大衆の生活をいっそう圧迫した。日中戦争による消耗も意外に大きく、軍需偏重のため消費財・生産財の円滑な再生産が妨げられたことが原因となって町の店頭から商品が姿を消し始め、鉄鋼生産高も一九三八年を境として減り始めた。近衛内閣は事態を乗り切るために権力機構を用いて経済の運営を統制し、戦時経済下における円滑な再生産体制を確立しようと図った。そしてとうとう一九三八年に国家総動員法が通貨成立したことにより、産業・貿易・金融・労働・国民生活の全分野にわたり行政権力による統制がなされることとなった。

近衛首相は議会で総動員法を日中戦争については発動しないと言明していたが、切迫した既成事態に押し切られ、翌年十月には早くも賃金臨時措置令・地代家賃統制令・価格等統制令が公布されて労働者の家計を手ひどく痛めつける賃金ストップ措置がとられた。他方で、法成立後まもなく始まった物資動員計画は軍需面に偏重して平和産業や中小企業に大きな打撃を与えた。これに加えて日中戦争と平和産業冷遇によって輸出額も減少し、さらに一九三九年日米通商航海条約廃止がアメリカ政府より通告されると、無条約状態となる一年後には鉄・石油・機械類の輸入途絶など日本資本主義経済に与える大きな影響が予測されるに至った。(『現代日本の政治とイデオロギー』、『経済五十年』)

この後、日本のこの体制も崩れることとなり、日本が敗戦国となったのは周知の事実である。ここまでのこうした過程を見ていくと明らかな矛盾点が浮き彫りとなっており、当時の一般民衆の苦労がありありと浮かんでくる。大正デモクラシーの体制が必ずしもよかったということはできない。しかし民衆を中心に据えていたはずの体制の崩壊が、民衆たちには関係のないところで起こっていたことは確かである。

 

 

6.考察

 ここまでは私が注目した時代についてその歴史を追ってきた。国家単位というレベルを考えると規模に差がありすぎるかもしれないが、そこで明らかになったいくつかのことには現代の子供たち、そして学校について結びつくものがあると私は考えた。

 前述の歴史とは順序が異なるが、まず、天皇というものが一つのイデオロギーとなって人々を洗脳(これはあくまでも私の捉え方であるが)したことについてだが、これは現代に氾濫する多くの情報と結びつくものだと考える。日本国内における情報への規制は海外ほどではないにしろ、決して厳しいものではない。書店にはあらゆるジャンルの本が並び、テレビを見ればさまざまな番組が放映されており、さらにインターネットの登場で非常に多くの種類、膨大な量の情報がごく簡単に手に入る時代である。子供たち(ここで私は高校生までをそう捉える)でさえもその例に漏れない。また、強行による苦しい状況を、現代の過熱する学歴社会、受験戦争として捉えたい。子供というものは、恐慌下の人々と同様、多感であり影響を受けやすい生き物である。かつての私もそうであり、塾講師のアルバイトで接している生徒たちもそうである。ここから生まれる出来事は何かというと、最近多発する少年犯罪だと私は考える。

 少年犯罪を犯す子たちはそのほとんどが、もともとは優秀な子であったといわれている。そういった子たちが犯罪に走った原因の一つには、上に挙げたような受験戦争の過熱、情報の氾濫があると私は考える。同級生との競争、親や先生からのプレッシャーというものが子供に対して与える影響はすさまじいものである。それに打ち勝つだけの精神力のない子達は精神的に壊れていき、冷静な判断力を失い、そして自分をこのような状況に陥れたものに対してとてつもない嫌悪を抱くだろう。そうした子達が行動の対象とするのは学校であり、親であり、そして社会である。そして、容易に入手できるさまざまな情報から良い悪いの区別、現実と仮想の区別ができずに犯罪に走ったと私は考える。少年法の改正などが大変話題となっているが、子供の側だけに責任があるような意見は誤りであると思うし、もう一度彼らを取り巻く状況について考えてあげてほしいと私は思う。

 次に天皇を絶対的なものとして、集団的な思想に基づいた行動を繰り広げた軍部は、現代のいじめを行う子供と結びつくと私は考える。個人では躊躇してしまうことでも、大勢になるとその意識が薄れ、時に残酷な行動さえも自然に行ってしまうものである。軍部のクーデターもそうした面が感じられ、集団としてありえたからこそ起こったものだと思う。いじめもそうであり、個人によるいじめというものはほとんどありえない。そこにあるのは、みずからのことをみずから判断する能力の欠如であり、また、集団の中にいることにより、みずからを相手の立場として考えられる能力の欠如である。軍部の行動も悲劇を巻き起こし、いじめも悲劇を引き起こした。ここに集団というものの恐ろしさがあると私は考える。影響を受けやすいがために流され、安心を求めるために集団に属する。個々人としての自立、全体を捉えるときに個人レベルでも考えられる力を私は現代の子供たちに望みたい。

 最後に、金輸出解禁を恐慌した当時の政府は、現代の学校、教師、親にあてはまると考える。結局こうしたものたちは、現場を見ようとしていなく、見たとしてもみずからの立場に都合の悪いものは見なかったふりをするものである。そして問題が生じたときには決してみずからの側には落ち度がなかったと主張することしかしないのである。いじめがもとで自殺をした子供がいたときに、本気でそのことについて悩み、考え、打開しようとしている人もいるかもしれない。しかし、学校関係者も親も自分の前ではそんな様子はなかった、自分の責任ではないと主張するばかりである。問題を起こした子供をみずからの力で何とかしようとはせず、施設などに送ることで解決したと思っている。自分の立場を守るためならなんでもする、全体の幸福のためには多少の犠牲は仕方がない、この考えは今も昔も権力者の中に必ずあるものだろう。きれい事を言うつもりはないが、こういった思想が存在する限り、社会の状況は変わらないと私は思う。

 

 

7.結論

 以上のことから、ファシズム下の日本、そして現代の日本に共通して欠けているものは何かと考えたときに、私は教育というものを思い浮かべた。私の考える教育というものは、学校で行われるものだけでなく、家庭での教育、同年代との関係の中で得られるもの、そして、マスメディアなどの世の中が与えている情報を含めた意味での捉えたものである。教育に問題が生じたときに世の中に問題が生じるのだと私は考える。ファシズム下の日本では教育の内容そのものに、今となって考えれば問題があったのであり、現代の日本では教育をする側に問題があるのだと思う。ファシズム下の日本は経済事情も、世情も大変なものだった。しかし、現代はまだ平和であり、不況だとはいっても国の経済が傾くほどではない。そのような状況でなぜ教育というものに疑問を感じるような時代なのかと考えると、それは今の日本が豊かであるがために生まれてしまった問題なのだと私は考える。

 豊かであるがゆえに更なる豊かさ、将来も継続する豊かさを求めることとなり、親が子供に学歴社会での生き残りを求める。そこにあるのは親自身の目的であり、そこから人を豊かにするような教育は生まれない。学校での教育も子供のためでなく、学校の地位や名誉のために行われる。そこから社会に対応できるような人間は生まれない。

また、物質的に豊かであるから他人に対して豊かな心で接することに不器用になる。そこから生まれるのは孤独であり、そして孤独を恐れるがゆえに集団に属し、孤独を嫌うがゆえに孤独な人間を攻撃する。しかし、その集団が所詮は表面的な関係であることに気づきもしなければ、気づかせてくれる人もいない。エスカレートしたものが引き起こすのはいじめであり、犯罪である。

さらに、豊かな今を守りたいがゆえに真実を真実として捉えようとせず、伝えようとしない。そのような教育者のために犠牲になった子供たちが、社会に対して問題を起こす。結局はその繰り返しである。みずからの豊かさに執着するあまり他人への配慮がなくなってしまうのである。

ファシズム下では混沌として厳しい世の中だからこそ、現代では平和で豊かであるからこそ教育上の問題が起きた。対極をなす状況から共通した問題が起きていることは興味深いことだとは思うが、好ましいことではない。自分一人が何をしたところで世の中が変わるとは思わない。しかし、問題が共通している以上、ファシズム体制の日本が失敗したように今の日本がどこかで失敗しないとはいえない。今後自分がどのような人々と接し、どのような状況にいるのかはわからないが、今回感じたことを言動や態度で示していきたいと強く思った。

 

 

参考文献 『現代日本の政治とイデオロギー』  大内兵衛、向坂逸郎監修 河出書房 

1971年

      『昭和恐慌―日本ファシズム前夜―』 長幸男 岩波書店 1973年

      『経済五十年』           向坂逸郎 時事通信社 1950年